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2006.06.18

3日間の座禅

Hasu


~座禅を前に~

「中庸」

この釈迦のめざした境地こそ、現代にもっともかけていて、人々の空虚感、苦しみ、不安を生み出している要因だと思う。歴史の中では、たいていの場合、人々はそれぞれ役割が明確で、自由になる時間などほとんどなかった。日々繰り返される日常の仕事とそれをきちんとこなしていくこと、これがどれだけ人を癒し満たしていることか。そして、その儀式的ともいえる日常繰り返されるべき仕事を機械がとってかわった今、それでも人がより一層働いたり、寝食を削ってでも費やしている時間は、なんのためなのだろう。


 昨日、普段はとても明るい友人がリストカットをしていたことを告白した。魂から訴えているように切実で、時より押し寄せてく“空虚感”“無力感”から自分を消したくなると教えてくれた。何とかして、自分を受け入れて欲しい、なんとかして自分を理解してくれる人が欲しいと彼女は訴えた。しかし、一方で彼女の話しの中には十分すぎるほど、彼女を愛し、助けたいと思っている人々の話がでてきた。どこまでいけば彼女は満たされるのか?才能、知性、愛情すべてが浪費され空っぽになっていると感じた。他人はどんなに愛をかけても、自分を充電するのは他でもない、自分しかない。これに人々が気がつくにはどうしたらいいのか。携帯の充電は、他の機種の充電器じゃできないことは知っているのに、自分自身の充電方法がわからない。


 インドの瞑想が変化したとも言われる座禅。目を閉じて五感を休め、意識の深いレベルに入っていくことは、自分の本質とつながることだといわれる。そして、宗教によって言い方こそ違えど、その最終的に行き着く先にあるものは、神、宇宙エネルギーといった“全て“だという。

 現代科学で主流となっている量子力学の分野では、この世の中を構成している最小単位はエネルギー、波動であるときく。そして、莫大なエネルギーがまだ動きをもたず不活発にそこに存在するとき、ある段階で必ずゆがみがおき、ビックバンのような大爆発が起きることが近年わかってきたそうだ。つまり、はじまりは1つエネルギーの塊で、それは全てであった。その散り散りにわかれた光のエネルギーが宇宙の大きな流れの中で今日の自分となっている。

この概念を教えてくれた理学博士であり、私の瞑想の師匠でもある方は、瞑想、座禅で深く入り込んだ意識の光は、本来の自分でもある大本の光と融合するのだと言っていた。そしてその最終地点を神とよぶのであれば、瞑想、座禅は究極の神への祈りだといえるのだと。

瞑想を行うようになってから、それが日本の座禅という形でどういう変化を遂げたのか体験したいと思っていた。だから、とても感謝している。今回のテーマは、意識を集中し、浮かんできる想念がひとしきり過ぎた後、何が感じられるのか、それを体験したいと思う。そして、釈迦の境地。ありのまますべてを受け入れ慈しむ「中庸」の境地を少しでもみにつけたいと思う。

~座禅を終えて~
自己とは何か

200606141240001

わたしは 今を生きる姿を 花に見る 
花の命は短かくて など歎かず 今を生きる 
花の姿を 賛美する 
ああ 
咲くもよし 散るもよし 花は歎かず 今を生きる 

1時間早く圓覺寺につき、境内を散策していると、板村真民さんの上記作品が書かれた立て札を見つけた。

座禅研修を終えた今、このことがよくわかる。
残念ながら座禅をしている最中、肉体的苦痛があまりにも強く、普段は揺れることが少ない心が様々に乱れた。肉体にとらわれること、次々と色々な不安や緊張が心身ともにおとづれる状態とはこういうものなのかという貴重な体験ができた。

下山し、3日間を振り返ると、やはり真理は1つだと感じる。しかし、肉体という常に変化し続ける器にとらわれている状態では、内なる心に意識がむけにくいように、言葉にしてしまうと大きな自然の法則はどうしても正しく伝えられないのだということに気がつく。

1年でその細胞がほぼ入れ替わり、1世紀もするとその機能を終えてしまう肉体にとらわれすぎてはいけない。だからといって、多くのいのちを頂き、多くのいのちのおかげで生み出されたその肉体を決して粗末に扱ってはいけない。遺伝子研究の第一人者である村上和雄先生が、科学者としての自分を否定する行為になることを承知で、しかし伝えずにはいられなかった【サムシング・グレート】の存在。これだけ科学、医学がすすんだ現代においても人体で複雑に機能している60兆の細胞のたった1つも無から作り出すことはできていない。また実におもしろいのが再生医療。培養して人体に戻したパーツは、一定の期間を経るとその中に神経が通り、血管がのび機能しはじめるという。肉体一つとってもこれだけ素晴らしい。だとしたら、そこにこころ(意識)がともなう人間はいったい何なんだろう、奇跡にも等しい。そして、その奇跡が地球という星だけでも65億存在しているということの神秘。

自分に存在価値がないと感じる人々、外見にコンプレックスをもつ人々、障害を苦痛に感じる人々、自らの環境が他人と比べてついていない、不幸だと感じる人々。そこから生み出される心理的不安、落ち込み、緊張。現代人が抱えているこれらの苦しみは、暗がりの中で、あるいは目を閉じたまま日常生活を行っているに過ぎない。電気もつけずに調理をすれば手を切るかもしれない、やけどをするかもしれない、何を食べているのかわからない、他の人がどこにいるのかもわからない。部屋に明かりをともし、目をあけて、やるべきことを儀式的に心を込めて行っていくことで、人々は本来の姿、自然の摂理を守るいのちに戻るのだと思う。すべてのいのちは、宇宙に欠かせない奇跡のエネルギーとして等しく愛されている。

頂いたお経の中の「座禅和讃」はこう始まる、

「衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて凍りなく 衆生の他に仏なし」

宇宙はそもそも大きなエネルギーの塊だったものが、ビックバンで散り散りになり、例えば地球という惑星ができた。散り散りになったところで元は1つ。地球に生命が誕生したのも太陽の熱、月の冷却があったから、ピースの1つ1つは、どれも欠かすことのできない役割を担っており、全てで1つ。

人間も同じ。大いなる宇宙の法則、偉大なるエネルギーの1つであり、全て。しかしながら、ピースから全体を見ることは難しく、ピースすなわち自己が、他の自己との優劣にとらわれるようになっている限り、はたすべき機能は果たされず、他の部分へも悪い影響を与える。

迷える多くの現代人の心に光をともすのは、本人の気づきしかないが、それを気づかせるきっかけは、黙って座禅を組む以外にもあると思う。まずは、いのちの尊さに気づいたいのちの光が、一番身近な いのちを照らすこと、その繰り返しが全体を照らしていく近道だと感じた。